a lucky man
どうか、その手で。
全く、厭になる。
誠一は痛みでろくに働かない頭で、ぼんやりと思う。
何故、今もこうして生きているのだろう。
流弾に撃たれたのが彼女ではなく自分だったなら。戌井と対峙した時に、葛原がいなかったなら。戌井と再会した際に、撃たれたまま助からなかったなら。
記憶を巡らして、誠一はある意味最悪な偶然に苦笑した。
幸運、とはよく言ったものだ。
全く以て馬鹿馬鹿しい、と誠一は嘲るように笑った。この状況を、そして自分を。
しかし、込み上げてくる笑いを零すたび、その感情とは裏腹に脇腹に負った傷からは身体を僅かでも震わすと同時にドクドクと血が溢れ出る。その痛みはやはり誠一の思考を鈍らせ、だが、むしろだからこそ、おかしな考えが浮かんだのかもしれない。
死ぬ勇気も覚悟も、未だ持ち合わせてはいない。けれど、今は。
重い身体を引きずるようにして、誠一はなんとか壁に倒れるように凭れた。血で汚れた手でコートのポケットを弄り、携帯電話を取り出す。登録してある番号を呼び出し耳元に当てると、呼び出し音が鳴る間もなく澄んだ声が聞こえてきた。
「ああ、イーリー」
『……誠一?』
恐らく、誠一の何か違う雰囲気を感じたのだろう。イーリーがどこか緊張を含めた声で呼びかけた。
「すまないけれど今回は、駄目かもしれない」
諦念を含んだ響きで、誠一はゆっくりと言葉を紡ぐ。イーリーは何も答えず、ただ聞いているだけだった。
「でももう、いいんだ」
覚悟を決めて呟いたはずの言葉は、けれど、やけに清々しく聞こえた。
電話を持つ手が震える。力が入らない。
ああ、本当に、いよいよかな。
視界が次第に暗くなっていく。誠一はこのまま目を閉じてしまいたかったが、云うべきことは云っておかなければならなかった。
朦朧とする意識をなんとか保ち、誠一は最後の言葉を口にする。
「今まで本当に、ありがとう」
そこに、嘘はなかった。誠一は薄く微笑みながら、がくりと壁に凭れたままその場に崩れ落ちた。
「っ……痛いな」
『誠一、』
痛みに思わず呟いたのと、電話先でイーリーが呼んだのはほぼ同時だった。片手で血が溢れ出る脇腹を押え、誠一は電話を持ち直す。
『今、どこにいるの』
電話の向こうから聞こえてきた声は、いつものように凛としていて、しかし誠一にはそこに普段は感じられない不安が含まれているのを聞き取った。
たとえば、と誠一は考える。
もし、俺がいなくなったなら……彼女は、泣いてくれるのだろうか。
そんなわけがない、と誠一はすぐにその考えを振り切るように首を横に振り、
「どこだろう……何も考えないでいたから、俺にも判らない」
と、ただ問われたことだけを返した。
イーリーもまた、そう、とだけ返し、それきりだった。
半開きの目で、誠一は前方に広がる空を見上げた。イーリーの、暗く、それでいて透き通った青い瞳を思い起こさせた。
彼女の目に、俺は、どう映っていたのだろうか……?
そしてまた、誠一自身は。
「イーリー、」
『……何?』
ガクガクとおぼつかない手つきで携帯電話を耳に当て、誠一はその言葉を口にした。
「 」
しかし誠一の喉からはヒューヒューと渇いた息が零れるだけで、呟いたはずの言葉は電話の向こうに届くことはなかった。
誠一の手から携帯電話がすり抜け、地面にぶつかり、かしゃん、と小さな音を立てた。
『誠一……?』
落とした携帯電話からイーリーの呼ぶ声が響いたが、誠一の耳には、もう何も聞こえてはいなかった。
そろそろ、か。
誠一はどうしてか楽な気分だった。もちろん痛みがなくなったわけではないが、意識が遠のいていっているのか、感覚が鈍くなっているからか、いずれにせよ、ふわふわとなにか浮いているような気持ちだった。
今回ばかりは、誰も来なかったな。
喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか。誠一は判らずに、ただ肩を小さく震わせ笑っていた。その理由が何なのか、それすらももうどうでもよく。
それから、どのくらい経ったのだろうか。誠一には長くも、さして経っていないようにも感じられた。
時折吹く風の音に混じって、確かにこちらに近づいてくる音が聞こえてきた。
カツリ、と誠一の前で足音が止まる。
誠一はまだ微かに意識の残っている頭をゆっくりと上げた。
「どうして、ここが判ったんだい……?」
「電話を、切らなかったでしょう」
誠一の問いに、目の前に立つ彼女イーリーは変わらぬ口調で淡々と答えた。ああと、誠一は納得し、そして同時に浮かんだ疑問を口にした。
「放っておいてくれても、よかったのにな」
誠一はまるで独り言のように、少しだけ残念そうな響きで呟いた。
イーリーがこの場に来たことは、果たして誠一にとって幸運なのか、それとも。
「言っておくけれど、」
イーリーが口を開いた。澄んだ声で紡がれるその言葉は、宣告だった。
「私は、死んでいいとは許していないわ」
静かにそう云って、イーリーは白いドレスが汚れるのも構わず誠一の前に膝をつくと両腕を伸ばした。細い腕で誠一を抱き締め、イーリーはしばらくそのままだった。
「……イーリー、俺は」
ぽつりと誠一が呟くと、イーリーは腕を絡ませたまま身体をずらし、にこりと微笑んだ。それはあまりにも美しく、妖艶で、そして、どこまでも冷たかった。
「死にたいのなら私が、殺してあげるわ」
その冷酷で優しい言葉が誠一には嬉しくて、じん、と胸が熱くなるのを感じていた。
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