with a sweet poison

 廊下を歩いていると、前方によく見知った影が見えた。光秀はそのまま近づき、その儚げな後ろ姿に呼び掛ける。
「帰蝶」
 呼ばれた女は静かに振り返ったが、その整った顔には困惑したような、あるいは怒りのような、僅かに複雑な表情が読み取れた。
 女が小さく溜め息めいた一息を吐き、ゆっくりと口を開く。何故、未だその名で呼ぶのか、そう言いたげな気配が窺えた。
「どうしたの、光秀」
 しかし女は、それを口に出すことはしない。恐らく言ったところで無駄だとわかっているからだろう。けれどだからこそ、光秀もまた何も言わない。ただ女の名を繰り返す。
「何でもありませんよ、帰蝶。ただ、呼んでみたかっただけです」
「からかっているの」
 女が呆れたように返してきた。光秀は口端を僅かに吊り上げた。
「からかってなどいませんよ。帰蝶、聡明な貴女のことだ、判っているでしょう」
 くつくつと思わず笑いが零れる。女はまるで汚いものを見るかのような、その哀しげな瞳に微かに嫌悪の色を浮かべて光秀を見ている。
「クク……ああ、良いですね……堪らない」
「……反吐が出そうだわ」
 そう吐き捨てて、女はあからさまな溜め息を吐く。それきり何も言わず、けれど立ち去ろうともしないことから、光秀の反応を待っているようだ。だから貴女は甘いのだと、光秀は内心呟いた。
「……教えてあげましょうか」
 光秀の言葉に、女は何を、と言うように視線を投げてきた。
「貴女が気になっていることですよ、帰蝶」
「何のこと
 女が言い切る前に、光秀は一気に女との距離をつめた。向かい合うという以上に、互いにその呼吸が感じられるほど近く。女は咄嗟に後ろへと下がるが、すぐに壁にぶつかってしまう。
「光秀……」
 女が戸惑ったように声を上げた。貴女にその名を呼ばれるだけで胸が高鳴ってしまうなど、恐らく貴女は気づいていないのでしょう。光秀は努めてその感情を瞳の奥に潜ませた。
「ご心配なさらずに、大したことではありませんよ」
「……貴方にとっては、ね」
 そう返す女の目は、困惑こそ浮かんでいるものの酷く真っ直ぐで、その得物の如く射抜かれてしまうようだと光秀は思った。
「貴女には適いませんね、帰蝶」
 何よりも、光秀に気は許しこそすれ、女は決して警戒を緩めない。むしろ、なまじ昔から付き合いがあるからこそ、ということか。
「ずっと、欲しかったのですよ」
「え……?」
 ほとんど声に出さず、口内だけで呟いたつもりだったが、女は気づいたようだった。しかし、何を呟いたのかは聞き取れなかっただろう。
 光秀は一息吐く変わりに、僅かに口元を歪ませた。女は壁に寄りかかるような形で、それは光秀が何か女に詰め寄っている様にも見えた。
「帰蝶、」
 女の名を丁寧に呼び、瞬間、光秀は顔を近づけた。ただでさえ互いの息がかかるほど近かったにも関わらず、触れるか触れないかというくらいまで。その紅の引かれた艶めかしい唇に、自らの唇を重ねようかというように。
 あまりにも唐突だったのか、一拍おいて女が息を呑んだのがわかった。
「……驚きましたか?」
 光秀が顔を近づけたまま呟くと、女は悔しそうな、蔑んだ目で睨むような視線を向けてきた。
「…………ああ、堪りませんね」
 満足げに光秀は更に続ける。
「気丈な貴女も好きですが美しいものが歪むのはもっと良い……」
 手を伸ばし、そっと女の頬に触れる。壊れ物を扱うような酷く丁重な手つきで、光秀はそのまま女の唇へと指を滑らせた。
「本当に、判りませんか」
 女は黙ったまま、けれど少しだけ視線を泳がした。その反応を肯定ととった光秀は静かに続けた。
「貴女が、信長公を上総介の名で呼ぶのと同じですよ」
「それは
「これで、納得しましたか」
 女が何か言おうとしたが、光秀はそれを遮った。光秀の行動に、女は一瞬その目に哀しげな色を浮かべたように思えたが、気のせいだろう。
「……光秀、」
 呼んで、しかし女は続けるのを躊躇った。
「……少しばかり、お喋りが過ぎたようですね」
 自嘲を込めて笑ったが、意識せず、酷く乾いた笑いになった。女は黙ったきり、ただ光秀に視線を向けたままだった。
 酷く哀しい目ですね……何故、貴女は私でさえも、哀れみを以てその目に映すのでしょう。
「……帰蝶、」
 光秀はその紅の引かれた唇に、一瞬、唇を重ねた。触れるか触れないかという、色気も無い、まるで儀式のような接吻だった。
 女は驚いていたが、しかし、茫然としていた。何が起こったのか、判断が追いつかないのだろう。光秀もまた表情には出さなかったが、内心、酷く狼狽していた。
「……戯れと許して頂けると有り難いのですが」
 それを隠すように光秀が呟くと、女がはっとして顔を上げた。
「出来ることならば、信長公には内緒にして頂けると助かります」
そう、ね」
 女は戸惑ったように返したが、何処か哀しげな響きが籠もっていた。或いは、光秀の思い過ごしかもしれなかったが。
「……失礼。では、また」
 笑みを浮かべて、光秀は女を解放した。女が口を開いたが、その言葉が発せられる前に、光秀は足早にその場を去った。
 未だに、胸が酷く高鳴っていた。気付かれやしなかっただろうか。
 不意に立ち止まって、光秀は自身の唇に指を当てた。一瞬だけとはいえ、光秀の想像以上に、女の唇は余りにも甘美過ぎた。
「全く……貴女には、本当に適いませんね」
 光秀は口元を歪ませた。
「叶わないとは思いつつも、やはり願ってしまう……愚かにもほどがあります*私も、……貴女も」
 あの甘美さを知ってしまったから。あの目に浮かぶ哀しみに、気付いてしまったから。
「帰蝶、……」
 光秀は確かめるように女の名を呟いた。そこに僅かな狂気の響きがあったことは、光秀自身でさえ気付かなかった。






Aug. 2008


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