taste

 ねえ、とアリスが口を開いた。向かいに座っていた咲夜は顔を上げ、続きを促す。
「咲夜は、あくまで人間なのね」
 アリスの言葉に咲夜は不意を突かれたが、少し唸ってから、
「そういえばそうだったわ」
 と、返した。いきなり何を言うのかと思えば、今更なことを。咲夜はついおかしくて笑いを零した。
「なによ、その忘れてたみたいな言い方」
「だって、あまり考えないもの」
「ふぅん」
 ぶつくさ言いながら、アリスは手元のティーカップを口に運ぶ。端正な顔立ちに僅かに浮かぶ不機嫌さは、しかしながら彼女の冷静な雰囲気を一層引き立ていた。紅茶を一口飲む、それだけの動作でさえ、もう随分と見慣れているのにも関わらず、咲夜はアリスに見入ってしまう。
 ふう、と一息吐いて、アリスはカップを置いた。その音に咲夜ははっとする。
「紅茶、冷めるわよ」
「少しばかり冷めたくらいが好きなのよ」
 適当に返して、咲夜はカップに口をつけた。冷たくも、熱くもない。
「まあ、考えたことがないわけじゃないけれど」
 カップに揺れるほんのり紅い液体を見つめながら、咲夜は続けた。
「仮にお嬢様に頼んだとしても、断られてしまうだろうし」
 口内に残っているのは紛れもなく紅茶の渋みだ。決して、甘みを含んだ鉄錆のような味はしない。ぬるさは近いかもしれないが。
 不意に、アリスが静かに立ち上がった。反射的にその姿を目で追う。窓近くに置かれた机の傍でアリスは立ち止まった。その隣の棚にはびっしりと本が並べられており、机の上にも何冊か本が積まれている。その中から一冊の本を手に取ると、アリスは席へと戻ってきた。
 座らずにその本だけを机の上に置き、とん、と高級そうな硬い革表紙を指先で軽く叩く。
「知ってるかしら」
 アリスが、視線を本に落としたまま呟いた。 
「吸血鬼になるには、吸血鬼に血を吸われる」
「そうね」
 アリスに言われるまでもなく、そんなことは咲夜ももちろん知っている。仕える主が吸血鬼なのだ、その性質や性格、弱点まで、恐らくおおよその全てを把握していると自負している。アリスが視線を上げた。咲夜が吸血鬼に関して博識であることなど、アリスは当然判っているはずで、つまるところ、むしろ確認のようなものだ。
「それから、一説には、吸血鬼の血を吸うことでもなれるそうよ」
 しかし、吸血鬼の血は大抵の人間には強すぎることが多い。一説、となっているのは恐らく、それに耐え得ることが出来たら、ということかもしれない。
「どんな味がするのかしらね」
 言いながら、咲夜は再度、紅茶を口に運んだ。もはや冷たさを認識出来るほどに冷めており、若干のぬるさが舌に感じられる程度だった。
「さあ、試してみたら」
 アリスがどこか含んだような笑みを浮かべながら言う。
「お嬢様に刃を向けるなんてとんでもないわ」
「あら、いつもしてるように思ったけれど」
 わざとらしく、咲夜はおどけてみせた。
「あれはごっこ遊びでしょう、問題ないわ」
「そういうものかしら」
 なんでもいいけれどね、とアリスが椅子に腰かけた。
 ふと、アリスの傍に控えていた上海人形と目があう。ティーカップを指して笑いかけてきたが、どうやら紅茶のおかわりを勧めてくれているようだ。咲夜は「あとでまた頂けるかしら」と返した。
「遠慮しなくてもいいのに」
「別に遠慮はしてないつもりよ」
「じゃあ、まだしばらくいるつもりなのね」
 口調こそ皮肉めいているが、アリスは嬉しそうだった。照れ隠しなのだろう。まったく可愛いんだから、と咲夜は微笑んだ。
冷たい」
 いきなりアリスが呟いたかと思えば、なんのことはない、ただ紅茶を飲み干していただけだった。空になったティーカップを不服そうに眺めている。冷たくなった紅茶はあまり好きではないのだろうか、アリスは険しい顔をしていた。
「どうかした」
 何気なく咲夜が訊くと、
「なにも」
 と、少しだけ間を挟んでから、アリスはゆっくりと答えた。
 アリスの置いたカップが、かちゃり、とソーサーに触れて音を立てた。
「もし、」
 頬杖をついて、アリスが静かに言葉を紡いだ。
「もし、咲夜が吸血鬼になって、私の血だけを糧に、生きるようになったらいいのに」
 青い瞳が揺れる。蠱惑的な魔女の笑み。白い指が口元で艶めかしく絡む。
「冗談」
「さあ、どうかしらね」
 咲夜はふっと息を吐いた。ふふ、とアリスは笑っていたが、どこか残念そうに、僅かに視線を落としていた。
「おかわり、頂けるかしら」
 咲夜が頼むと、上海がティーカップに紅茶を注いでくれた。湯気とともに、紅茶の香りが漂う。一口飲んで、咲夜はその熱さにびっくりした。透き通った紅い液体に映った自分の顔が歪に揺らめいている。熱さで驚いているくせに、水面に映っている彼女はひどく冷静な顔をしていた。
「でも、悪くないかもしれないわ」
 もう一口、今度は覚悟して飲んでから、咲夜は言った。
「つまり、アリスが死んだら、私も死ぬってことでしょう」
「そういうことになるわね」
 アリスの凛とした声が肯定する。ああ、それは、なんて。
「素敵」
 咲夜は思わず感嘆した。なんて、残酷で、甘美な。
「でしょう」
 アリスが満足そうに頷いた。
「魔女の血は、どんな味がするのかしら」
「試してみる?」
 にこりとアリスは誘うように笑って、その繊細な指を口元に寄せた。がり、と小さく鈍い音がして、白い肌に鮮やかな赤が映える。
「咲夜、ほら」
 アリスが立ちあがって、手を差し出してきた。咲夜はうっとりとした表情で、静かに口を開けた。






Oct. 2010


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