グレープフルーツ

 それは彼女の口癖のようなものだった。
「 すきよ 」
 僕が机の上に頬杖をついて、窓の外をぼんやりと眺めていると、彼女は後ろから優しく首に腕を回してきた。
「 うん、すき 」
 ぽふ、と彼女は回している腕に顔を埋めた。ちょうど僕の首の後ろに、彼女の静かな吐息がかかる。それがくすぐったくて、思わず僕は笑みを零した。
「 どうしたの 」
「 くすぐったい 」
 彼女はゆっくりと顔をあげ、同じようにゆっくりと腕を外して僕から離れた。まだ、背中や首に彼女の温かさが残っている。
 彼女は窓を開けた。
 きらきらと、彼女の髪が輝いて見える。午後の陽射しは眩しい。
「 きれい 」
「 そうだね 」
「 みんな、すき 」
「 うん 」
 彼女がふんわりと微笑む。すき、と云うときに、よく彼女がする笑顔。
「 すきよ。すき。すき 」
 窓の桟に手をかけて、少し身体を乗り出して外を眺めていた彼女は、くるん、と僕の方を向いて、何度もすき、と云った。
 そんなに すき、と云われたら、恥ずかしくなるじゃないか。
 不思議なことに、何度も何度も彼女はすき、と云うのに、その言葉にある想いは全然変わらないのだ。軽くならない。それよりも彼女が云う度に、一層僕は照れ臭くなる。
「 ねえ 」
「 なぁに 」
 彼女は楽しそうに返事をした。窓の桟に腰掛けるように寄り掛かって、僕を見る。
「 きらいなものはないの 」
 僕の質問に、彼女は驚いたようだった。きょとん、とした表情を浮かべたあと、
「 んー 」
 と、さっきとは逆の体勢で、少し窓から身体を乗り出して、空を見上げて考えているようだった。
 僕は、彼女がどんな答えを返すのか期待していた。
 彼女は色んなものがすきだけれど、きらいなものは、僕は知らない。
「 きらいなものは、ない、かな 」
 彼女は乗り出した身体を戻すと、ふっと呟いた。けれど、その言葉は断定ではなく、少し語尾を上げていて、曖昧なものだった。
「 苦手ときらいは違うでしょう 」
「 え、うん……そうだね 」
 いきなり逆に彼女に問われて、僕は思わず肯定してしまった。だからと云って、その質問の意味が判ってから考えても、結局僕は肯定なのだった。
「 きらいなものはないけれど、強いて云うなら、苦手なものはあるのよ 」
「 へえ、何 」
「 鳥 」
 そう答えた彼女は僕に背を向けて、窓から午後の陽射しが溢れている大空を見上げた。僕も彼女越しに、あいだから見える青空を見た。雲ひとつないようで、快晴だった。
 ピチチ、という鳴声がして、一羽の少し尾の長い鳥が、張り巡らされた電線にとまった。
「 どうして、鳥が苦手なの 」
 僕が彼女に問うと、彼女は微かに口元だけで笑って、
「 鳥は持っていってしまうから 」
「 ふぅん 」
 いまいち判らなかったけれど、でも、なんとなく判るような気もした。
「 あ、苦手って云うのは可笑しいかしら。鳥もすきだけれど、でも、鳥は私のすきなものや、私の知らないものまで、空の彼方に持っていってしまうから 」
 小さく、鳥の羽ばたく音がした。見れば、電線にとまっていた鳥がいなくなっていた。あの鳥も、空の彼方へと、彼女のすきなものを持っていってしまうあるいは、しまったのか。
「 私のすきなものを持っていかないで、とは云わないの。私がすきであっても、それは誰のものでもないものだもの。ただ、鳥は、私にはとてもとても届かないから 」
「 そっか。うん 」
 胸がぎゅっ、と締め付けられるような感じがした。少しだけ。僕にとっては、彼女も遠い気が、ちょっとだけ、したんだ。
 僕がどんな表情をしていたのかは判らないけれど、彼女が何処かかなしそうな顔をしたように見えた。
「 ジュース、飲む 」
「 ……うん 」
 よいしょ、と彼女は窓の桟から身体を離して、ゆっくりと窓を閉めた。ガラスにちょうど太陽が反射して、その眩しさに僕は眼を細めた。
 ぱたぱたと、スリッパの音を立てながら、彼女はキッチンに向かった。グラスを取り出す音、冷蔵庫を開ける音、閉める音、ジュースがグラスに注がれる音。
 しばらくして、彼女がグラスを2つ持ってきた。
 半透明な、黄色い液体彼女の、そして僕のすきなグレープフルーツのジュース。
 ことん、と彼女が僕の前と、自分の手前にグラスを置いて、そして窓ガラスを背に向ける位置の席に座った。
 僕はストローを掻き混ぜた。氷がきゃらきゃらと音を立てる。
 ストローの僅かに濁った音を立てて、僕はジュースを一口啜った。
「 グレープフルーツって、すき 」
「 僕もだよ 」
「 知ってるわ 」
 ふんわりと、相変わらずの笑顔を浮かべて、彼女はジュースを飲む。
 僕も再びジュースを飲む。甘酸っぱくて、それなのに何処か苦く渋みがあって、グレープフルーツの独特の味が口内に広がる。冷たい感触が、咽喉から浸透していく感覚が爽快感を生む。
 窓の外から、また鳥の鳴声がした。彼女は振り向いて、その姿を探す。僕も、彼女の視線を追った。
 さっきの、尾の長い鳥だった。
 僕はふと、彼女を見た。彼女はその鳥の方を見たままだった。その表情は、口元は微笑んでいるのに、瞳はとてもとてもかなしそうで、さみしそうだった。
 僕はまた胸が苦しくなった。
 彼女が窓の外から視線を外した。その拍子に、僕と彼女の眼があった。
「 そんな顔、しないで 」
「 ごめん 」
 彼女は手を伸ばして、僕の頬に触れた。細い華奢な指が、優しく頬を撫でる。
「 鳥は憧れ。私が鳥だったなら、すきなものは全部、空の、虹の向こうに持っていったのに 」
 そっ、と彼女が手を離した。それとほぼ同時に、からん、とどちらのかは判らないが、ジュースに浮かんだ氷が溶けて、音を立てた。
「 すきよ 」
 恥ずかしいとか、照れ臭いとかじゃなくて、僕はまた、胸が締め付けられた。
 これは、恋だろうか。
 氷が溶けて、ジュースの上の方が、水とジュースとに分離していた。くるくると、軽くストローで混ぜてから、僕はジュースを啜った。
 グレープフルーツの味は、まるで、恋みたいだ。
 そんなことを思った。それを知らないあいだに感じていたのかもしれない。だから、すきなのかもしれない。
「 すきだよ 」
 僕は、呟いた。云ったときはそうじゃないのに、改めてその内容が判ると、僕は思わず頬が熱くなるのを感じた。
 ちらり、と彼女の様子を窺えば、彼女はやはりふんわりと微笑んで、そうして、
「 私も、すきよ 」
 と、詠うように云うのだった。