グレープフルーツ

 私は色んなものがすき。
 きれいなものも、よごれてしまったものも。
 この世界がすき。みんな、すき。
「 すきよ 」
 私がそう彼に云うと、彼は頬杖を崩して窓の外を見ていた視線を少しだけ私に向ける。頬が紅潮していて、彼が照れているのが判る。そういえば、彼は以前、私がすき、と云うと恥ずかしくなる、と云ってきたことがある。
 ふい、と彼はまた視線を窓の外へと戻した。私は彼のそんな様子が可愛くて、愛おしくて、思わずその背中に抱きついた。
 彼はちょっと驚いたようだったけれど、そのままでいてくれて、私は回した腕に顔を埋めた。きれいな首筋。私は眼を閉じた。
 彼が僅かに身じろぎして、微笑んだのが判った。
「 どうしたの 」
「 くすぐったい 」
 彼が微笑んだ。彼の笑顔はきれい。彼は知らないけれど、私は彼の笑顔がすきなのだ。すきなものはたくさんあるけれど、彼の笑顔は特に。
 私と、彼もグレープフルーツがすき。甘さとすっぱさと、苦さと渋さが絶妙に合わさって、それがすごくすき。まるで恋みたいだから。
 窓を開けた。今日は快晴。真っ青な澄み切った空が広がっていて、太陽がきらきらと柔らかい光を降りまいている。
「 きらいなものはないの 」
 彼が訊いてきた。きらいなもの。なんだろう。すきなものはすべて。なら私にきらいなものはないのかしら。
「 きらいなものは、ない、かな。でも苦手なものはあるわ 」
「 なに 」
 彼が興味津々に訊ねた。横目で窓の外を見れば、向こうから鳥が飛んでくるのが見えた。
「 鳥よ 」
「 どうして 」
 さっきの鳥が近くの電線にとまった。尾が長い。彼も気付いたようで、その鳥を見遣る。
「 鳥は、みんな持っていってしまうもの 」
 彼は不思議そうな顔をした。けれど同時に、納得しているようにも見えた。
 鳥が苦手、というのは語弊があるかもしれない。私は鳥もすきだから。でも、鳥は私のすきなものを持っていってしまう。あの空の彼方に。そして、私が知らない、世界のものも、鳥は知っていて空の彼方へと隠してしまう。
 持っていかないで欲しい、とは思うけれど、私がすきなものは、私がすきなだけであって、決して私のものではないから。誰のものでもないから。でも鳥はそれを少しだけ自分のものに出来て、鳥は私には届かない存在。私のすきな青空を、いつでも飛ぶことが出来て、その空を知っている。
「 ジュース、飲まない 」
「 あ、うん 」
 私は窓を閉めて、キッチンへ向かう。グラスを取り出して、冷蔵庫からジュースもちろん、グレープフルーツ味のだと氷を出す。グラスにまず氷を入れてから、ジュースを注ぐ。そして、最後にストローをさして。
 グラスを彼の前に置くと、彼は軽くストローで掻き混ぜた。氷が音を立てる。彼は気付いてないのかもしれないけれど、ジュースを飲む前に必ずストローを掻き混ぜる。それから、一口啜るのだ。
「 すき 」
「 うん 」
「 グレープフルーツって、すき 」
「 僕もだよ 」
「 知ってるわ 」
 彼はグレープフルーツがすき。そして、私をすきでいてくれる。だから、私も彼がすき。彼が私のことをすきでなくても、それはきっと変わらないのだろうけど。
 私はすき、と云う。彼に、みんなに。
 私は彼に微笑みかけて、グレープフルーツジュースを一口飲んだ。
 外から、また鳥の鳴声がした。私は思わず、声のする方に眼を向ける。さっきいなくなっていたのは気付いていたけれど、その鳥がまた戻ってきて、さっきと同じ電線のその場所にとまっていた。
 私はきっと、かなしそうな顔をしていたと思う。視線を戻して彼を見れば、すごくすごく切ない表情で私を見つめていたから。
「 そんな顔、しないで 」
「 ごめん 」
 私は彼の笑顔がすき。彼のかなしい顔はすきじゃない。きらいじゃないけど、唯一私が見たくないものは、彼のかなしい顔。
 私は彼の頬に触れた。彼がすき。だいすき。お願い、泣かないで。
「 鳥は憧れなの。私が鳥だったなら、全部、空の向こうに、虹の向こうに持っていってしまったのに 」
 彼はまたかなしい顔をした。
 私は鳥になりたかった今も、夢みているけれど、でも彼から離れるつもりはない。少なくとも、私からは。
「 すきよ 」
 私が云うと、彼はまたジュースを掻き混ぜて、一口啜った。
 それから、私の方を見つめて、
「 すきだよ 」
 彼はそう云って、少しの間のあと、頬を赤く染めて視線をそらした。
 私はいつもみたいに、微笑んでみせた。
 私も、貴方が すきよ、と。