サウダージ

 雨の音がする。静かに水が降る音。ときどき、窓を打ちつける。
 その遠い音が生み出す、心地好い静寂が部屋を包んでいる。彼女はそっと眼を閉じる。
 からん、とテーブルに置いたジンジャーエールの中の氷が溶けた音がした。
 彼女は、こうして一人で過ごす時間が好きだ。特に一緒に暮らしている人物がいるわけではない。ただ、何かひとつ飲み物それは酒であったり、ジュースであったり色々だがを飲むだけで、あとは何もしないで寛ぐのが、彼女の最高のひとときなのだ。
 彼女はグラスを取ると、一口、ジンジャーエールを飲んだ。グラスと、テーブルのそのグラスの置かれていたところは、水滴で濡れていた。
 彼女は再びそのグラスをテーブル(先ほどと同じところ)に置くと、音もなく立ち上がり、バスルームへと向かった。
 淡い黄色のローブを脱ぎ、次にフレアスカートを脱ぐ。乾いた音がし、白い肌が仄かな明かりの中に浮かび上がる。彼女は、僅かに涼しい空気に身を震わせた。丁寧な動作で彼女は下着を外していく。そして、脱いだ着衣を無造作に洗濯機の中へ入れた。
 扉を開けて、彼女は浴室へと入る。立ち込める湯気が暖かい。
 蛇口を捻れば、勢いよくお湯が溢れ出す。
 シャワーの音は、雨と似ている。そう彼女は思った。躊躇いもなく顔面からシャワーを浴びる。打ち付ける水飛沫。髪が、肌が濡れていく。水の落ちる音。
 浴室の窓の向こうからも、シャワーの音と重なって雨の音が聴こえる。
 全てが遠く感じた。過去も、未来も、今も。世界も。
 彼女は、世界に自分しかいないように思えた。世界から離れた世界の中心に、たったひとりで。
 世界の中心は何処にでもあって、どこにでもない。世界から隔離された、条件が揃ったときに、初めてそこが中心になるのだと、彼女は思った。
 ここに彼女がいることは確かだったが、彼女以外に誰も他に知る人はいない。まさに、彼女は世界の中心にいるのだった。
 水の音を聴きながら、彼女は眼を閉じた。絶えず水滴が肌を伝って流れ落ちていく。
 ぼんやりとした暗闇に聴く音は、シャワーなのか、それとも雨音なのか。彼女はまるで雨に打たれているようだった。気持ちが洗われていくよう。
「全て、流してしまえたらいいのに」
 彼女はお湯を止め、一言だけ呟いた。
違う。溶けてしまえばいいのかしら。みんな、全て」
 一歩踏み出すと、床のタイルに留まっている水が、ぱしゃんと音を立てた。
 先ほどまでは温かかったはずのお湯だが、髪から伝う水滴は冷たかった。
 窓の外からは、変わらず雨の音がする。
 排水溝に吸い込まれていく水が、渦を巻いていた。その様子をじっと、彼女はまるで渦に引き込まれる水のように見つめた。
(あのひとは、どうしているかしら)
 不意に、ずっと昔の光景が脳裏に浮かんだ。大切だったひとの笑顔。
 彼女は立ったままだった。身体が冷えてきた。
 大切だったひととの、それ以外のひととの彼女は想い出を流れゆく水に重ねていた。どんなに忘れまいとしようが、記憶は確実に薄れていく。そしていつかは記憶の片隅に、あるいは全く忘れ去ってしまう。それは留まることを知らない時間のように。また、全てを流していく水のように。
 もう一度、彼女は蛇口を捻った。冷えた身体に、温かなお湯が気持ちいい。
 胸の前で掌を、お湯を掬い上げるように、ぴったりとくっつけた。お湯が溜まっていく。
 しかし、指のあいだから、少しだが零れ落ちていく。いっぱいになった手から、お湯が溢れていく。
 大切な記憶が、想いが零れていく。流れていく。溶けていく。
(決して、水は掴めないものね)
 ぱっと手を離して広げれば、液体の塊は床のタイルにぶつかって、一瞬で弾けた。
 不規則な、水が降る音。
 彼女は泣きたくなった。だから泣いた。ずっと昔に捨てたはずだった、この胸が締め付けられる切ない想いも、かなしみも、涙も、全てすべて流してしまいたかった。溶かしてしまいたかった。
(どうして、まだ忘れられないの)
 忘れたくなかった記憶でさえはっきりと思い出せないのに、あのひとだけは、記憶ではなくあのひとの存在が、今でも憶えている。声も、仕種も、癖も、体温も、何もかも鮮明に。記憶としてだけでなく、身体が憶えている。
 シャワーの音がいやに耳障りだった。雨の音も。
(結局、戻れないのよ)
 雨の雫は落ちるだけ、シャワーの水は流れるだけ。そして彼女は生きていくだけ。
 シャワーを止めた。そして、浴室を出る。バスタオルで身体を拭き、ヨットパーカを羽織り、スポーツタオルを肩にかけて部屋へと戻った。
 テーブルの上のジンジャーエールは、グラスの中の氷が全て溶けて、かさが増していた。それから、汗をかいたグラスの水も、流れてテーブルの上で更に広がっていた。
「ジンジャーエールは彼が好きだった。氷はわたし。一緒に溶けてしまえばよかった」
 その下に広がる水は、彼女の全て。全てを棄てていれば、よかったのか。
 彼女の抱いているものは後悔だった。後悔と、哀愁だった。今更、どうしようも出来ないことは、彼女自身が知っていた。しかし、何かがそれを赦さないのだった。
(そういえば、このグラスは彼が使っていたものだったかしら)
 どうして忘れていたのか本当に忘れてしまっていたのか。
 薄くなったジンジャーエールを飲む。微かに辛さを感じたが、殆ど味がしなかった。まだ液体はグラスの半分くらい残っている。
 彼女は一旦テーブルの上(適当なところ)に置き、立ち上がって、再びグラスを取った。
さようなら)
 忘れることは出来なくても、執着を棄てることは出来る。
 大切なひとを、「現実」ではなく「想い出」にするのだ。何処かで生きていようと、彼女の隣にはいないだから、いなくなってしまったと、二度と会えないと、二度と、会うまいと。
 そうして、彼女は静かに、グラスから手を離した。

 グラスと水が、砕けて弾けた。
 飛び散ったガラスの破片と水が、テーブルの上に、床に落ちる。
 ヨットパーカから突き出た白く細い脚に、赤い筋が一筋ついた。
 彼女は、しばらくその格好のまま、立ち竦んでいた。