From Dusk To Dawn.

 いつもと同じで同じじゃない日常で、彼女は誰にともなく云った。
 それを偶然聴いたのは、彼女のいる部屋にいた彼だった。その部屋には彼女と彼しかいなかったから、聴いたというよりは、聴こえたという表現の方が合っているかもしれない。
 彼女の言葉は台詞染みていて、不可解だった。
「もし、陽が沈んでから、西に向かって走ったら夜明けは来ないのかしら」
 彼は何も云わなかった。彼女は彼に訊いているわけでもなかったが、話しかけているようには聴こえた。だから、彼は黙って聴いていた。
「逆でもいいわね。陽が昇ってから、西に向かって走る。そうしたら、夕暮れは来ない」
 彼女の云っていることは理解できる。確かに、論理的には可能だが、
「実際、それは無理だけれど」
 溜め息混じりに、彼女は呟いた。
 彼はあまり彼女を知らなかった。同期、というだけで、会話という会話はしたことがなかったし、それ以前に、彼女の声をきちんと聴いたのは今が初めてだった。
 彼女と初めて会ったのはいつだったか思い出せないが、しかし、彼は彼女について唯一、何かしら違和感のようなものを感じていた。それは今も変わらない。
 彼女が彼を真直ぐ見つめてきた。彼はどきり、とする。
「朝と夜がなければ、世界はないのかもしれないわね」
 彼の感じている違和感めいたものは、彼女の不可解で不思議な言動を、無意識に感じていたからかもしれない。
 だが、彼は彼女に対して不快な感情や偏見は抱かなかった。かといって、好意を抱いたわけでもなく、それは興味だった。
「貴方は、知ってた?」
 不意に、彼女は彼に尋ねた。彼は驚いて、思わず顔を上げた。彼女が笑う。
 空が赤く染まっていた。夕暮れ。クリムゾンとコバルトブルーが、鮮やかなグラデーションを生み出していた。
 窓から、茜色が差し込んできている。オレンジに染まった部屋。
 彼女は言葉を続けた。
「出逢いと別れは同時に起こるのよ」
 彼は首を傾げる。
 彼女は髪を掻き揚げた。夕陽が、彼女のシルエットを映し出す。
 もし今から、街のあいだに沈みゆく夕陽を追って走ったなら、夜明けは来ないのだろうか。
出逢ってしまったら、別れは避けられないものなのよ」
 彼ははっとする。夕陽が沈んでいく。
 夕陽に背を向けている彼女の表情は、だんだんと判らなくなってきた。
 黄昏。誰そ彼。
 彼女は、更に続けた。
「それは、生命も同じこと。生と死は、同じとは云わないけれど、でも、生まれたら、いつかは死ぬのよ。もちろん、生まれなければ、死ぬこともできないけれど」
 そう云って、彼女は彼の隣へと移動した。
 彼は、初めて彼女の顔を間近で見た。綺麗な顔だと思った。美しいと思った。軽くウェーブのかかった、肩にかかる髪も、見透かしてしまいそうな眼も、不可解な言葉を紡ぐ(キスの巧そうな)細く赤い唇も、見つめれば見つめるほど、綺麗だと彼は思った。
「云ってしまえば、始まりと終わりは同じもの。何かが始まるのは、何かが終わったとき、終わることは新たな始まりでもある
 彼女は彼を見上げた。彼女は背が高いが、彼もまた、背が高い。
 彼は思わずたじろぐ。上目遣いで見つめてくる彼女。心臓の鼓動が速くなるのが判る。
「貴方と私は生まれてきたから、いつか死ぬの。出逢ったから、いつか、別れるの」
 そっと、彼女は彼の胸へと寄り掛かった。耳を当てて、その音を聴くように。
「優しい音。そうね、始まりと終わりだけじゃ、世界は成り立たない。今という瞬間、でも、始まりも終わりも、いつかという瞬間ね」
 彼女は彼から離れると、人差し指をぴんと立て、彼の唇に当てた。
「キス、しましょう」
 窓の外は陽が沈み、夜が始まるところだった。夜明けへと向かって。
 温かな、柔らかな感触が、唇に優しく触れた。