蝶の影を追う

 その青年は、まるで少年のようだ。と、永子は思っていた。
 時間があれば永子はよく、自宅のマンション近くの公園まで散歩に来ていた。ブランコやすべり台、砂場などの遊び場から少し離れたところにある、白いベンチが永子のお気に入りの場所だった。ちょうど木陰になっており、けれど、上に広がる樹木の枝が風に揺れるたび、きらきらと木漏れ日が振ってくるのが好きだった。
 今日も午後の陽射しは柔らかく、ふわりとしたよそ風が気持ちいい。永子は正面に見えるブランコで遊んでいる子どもたちを、優しい眼差しで見守っていた。それから、永子は視線をずらして、子どもたちから少し離れた場所でカメラを構えている青年を見遣った。
 彼は、しかし永子は知らなかった。ただ、永子はこの公園で彼を何度か見かけていた。いつも少し重そうなカメラを構え、子どもたちや、その傍らで彼らを見守る母親たち、そしてベンチに座っている帽子を被った紳士的なおじいさんそういった何気ない、しかしどこか懐かしく優しい光景を、彼は写真に収めているようだった。
 不意に、彼は永子の方に視線を向けた。ぱち、と視線がぶつかり、彼ははっとして照れたように顔を伏せてしまった。永子はくすりと笑った。
 彼はそれから、再び何枚か写真を撮り、そして永子の方へと歩いてきた。
「こんにちは」
 彼が立ち止まり、永子は挨拶をした。彼が軽く会釈で返す。
 彼成次は緊張していた。永子に気づいてから、どうにも彼女のことが気になった。そして何より、きれいなひとだと、成次は思った。改めて間近で永子を見ると成次はどきりとした。
「どうしたの」
「え」
 永子に声を掛けられ、成次ははっとした。けれど、成次はどうしていいのか困っていた。永子に近づいたのは、ただ彼女を傍で見たかったというだけだったからだ。
 黙っている成次を見兼ねたのか、永子は少し苦笑気味に微笑んで、
「隣、どうぞ」
 と、身体を少し横にずらし、永子の隣を示した。成次は一瞬たじろいでから、他にどうしようもないので、おずおずとベンチに腰掛けた。
「この公園には、よく来るの?」
 永子が問うと、成次は頷いた。
「時間があるときは大抵」
「そう」
 それきり会話が途絶え、永子は特に気にしたふうでもなかったが、成次はどこか落ち着かない様子で、膝の上で指を何度も組み変えていた。
「写真が好きなの?」
「え、」
「いつもカメラ持っているでしょう」
 永子は成次の首から提げたカメラを指差して云った。成次はああ、と合点が云ったような表情をしてから、
「いろんなものを撮りたくて」
 と、笑顔で楽しそうに、そして眼を少年のように輝かせながら答えた。
 永子は、ほんの少しだけ成次が疎ましく、そして羨ましかった。成次は夢を持っている。それを叶えようとする行動力もある。永子はしばし逡巡してから、薄く微笑んで返した。
「がんばってね」
はい」
 成次は深くはっきりと頷いた。再び永子が微笑みかけたが、成次には、それがなぜかひどく淋しそうに映ったのだった。
「あの、」
「なぁに」
いえ、何でもないです」
「……そう」
 成次は永子に名前を訊こうと思ったが、永子のあの淋しげな微笑みが離れず、どうしても訊いてはいけないような気がしてならなかった。
「そろそろ、行くわね」
「あ、はい」
 すっと永子は立ち上がって、成次に向かって云った。成次もつられて立ち上がる。
「それじゃ、またね」
 そう残して、永子はフレアスカートを翻し、さながら蝶のように成次の傍からふっと消えてしまった。成次はしばらく茫然とその場に立っていたが、不意に眼の前を何か影が通り過ぎたような気がして、それを追うようにその場を後にした。