グラスの水は温く、

 冷たい空気に、思わず永子は目を開けた。数分だが記憶が曖昧だ。流しているCDのメロディだけが、微かに耳元に残っているような感覚。とはいえ、それ以外に聴こえる音は、朝から降り続いている雨の音だけだった。
 ソファーに座り直し、髪を掻き揚げる。ちょっと寒いかな、と永子は開け放った窓を見て思ったが、閉めることはしなかった。左右に寄せられたカーテンが、時折吹く風に大きく煽られる。
 雨の匂い。永子は、雨が嫌いではなかった。ならば好きなのか、と訊かれたことがあるが、それも違う気がしている。好きでも嫌いでもない。だから、嫌いではない。
 テーブルを見遣ると、グラスにまだ水が残っていたのに気づく。グラスを取り一口水を口に含んで、温いと感じたが、構わずそのまま飲み干した。
 空になったグラスを持ったまま立ち上がると、勝手に向かい、蛇口を捻る。溢れる水はすぐにグラスをいっぱいにした。入り切らなかった水が、グラスの外を伝い、永子の指を濡らした。その場で永子は水を何口か呑む。
 夢うつつでまどろんでいる意識に、現実が滑り込んでくる。それから、確かに何か冷たい液体が、喉から浸透していって身体中を巡っていくような感覚がした。
 目を覚ました永子は、グラスをテーブルに置いてから、ついさっき曲が終わったCDをベッド脇のコンポから取り出してケースにしまい、その隣の本棚に何冊かの本とCDと一緒に立てかけた。
 インターホンが響く。そういえば今日は功が来るんだったかしら、と永子は思い出して玄関へと向かう。
「永子」
 少し重い扉を、がちゃりという音と共に押し開けると、功一がいつものどこか眠たそうな表情で、しかし永子を見ると微かに微笑み、その名前を呼んだ。
「ごめんなさい、ちょっとうたた寝しちゃって、何も用意してないの」
「……気にするな」
 ひどく素っ気ない響きに聞こえるが、功一はそれでも気遣っているつもりなのだ。永子はにこりと微笑んでそれに答え、功一を部屋に招き入れる。
「今日は、CD流してないんだな」
 ソファーに腰掛けてから、功一は切り出した。
「さっきまではかけていたのよ。聴く?」
いや」
「そう」
 と、永子は特に気にした様子もなく、窓辺に立って雨の降る景色を眺めた。ソファーに凭れ掛かって、そんな永子の後姿を見つめる功一の視線を感じながら。
「寒く、ないのか」
「ちょっとだけ」
 永子は振り返らず、じっと外に視線を向けたままで答えた。功一が何か云いかけたが、永子は追及しようとはしない。きっと、寒いなら窓を閉めればいいだろう、とそんなことを云いたかったのだろう。永子はくすんだ空から幾筋もの透明な糸のように降る雨を見つめながら、そんなことを思った。
 窓を閉めないのは、理由がないわけではない。けれど、それは他人にいうほどの理由でもない。永子は、本当にただ、雨を感じたかっただけなのだ。
風邪、ひくぞ」
 永子がなかなか窓辺から離れないからだろう、功一がけれどどこかぎこちない様子でその後姿に声を掛けた。少しだけ間を置いて永子は振り返り、そして功一の隣へと座った。永子は功一の方へと寄り掛かり、その肩に彼は腕を回してくる。
「冷たい」
 開け放たれた窓から吹き込む湿った匂いと、微かな冷気。しかしそれに加え、窓辺にいたからだろう、永子の身体はとても冷えていた。永子は、特に気にしなかったが。
「永子」
「なぁに」
 と、うっとりとした響きで永子は云い、目を閉じて身体を功一に預ける。功一はそれ以上何も云わなかったが、変わりにぎゅっと永子を抱きしめるように更に引き寄せた。
雨、止まないわね」
「ああ」
 ざあざあと、それはどこかのノイズにも似た音が、外の冷たい空気と共に部屋へと流れ込んでくる。耳障りなようで、それでいてどこか心地好い響き
 しばらくして、ふと、永子はその音とは確かに違う音が聞こえるのに気づいた。ずっと傍で聞こえる音。優しく、安心できる音。
「功、」
 と呼びかけてみたが返事はない。見れば、功一は微かな寝息を立てて眠っている。いつも眠そうな表情で、事実眠っていることも多いが、永子は思わず可笑しくてくすりと笑った。それから功一を起こさないように、そっと彼の腕から抜け出して窓を閉めた。永子は唐突に妙な静けさの中に放り込まれる。遠い雨の音。まるで世界から隔離されてしまったかのように
 再び功一の傍へと歩み寄って、テーブルに置いたままのグラスを取った。功一を目の端に留めながら、永子は立ったまま水を呑む。やはりまたグラスの水は温くなっていた。
功は、」
 永子は腰を屈めて、すやすやとどこか安心したような表情で眠っている功一を覗き込んだ。そのままの状態で、テーブルにグラスを置く。その音か、あるいは垂れた永子の柔らかな髪が頬にかかったせいか、功一は僅かに身動ぎした。永子は触れるか触れないかという手つきで、功一の頬を撫でた。
「私がいなくなったら、悲しむかしら」
 答えは、もちろん返ってはこない。永子はふっと、少しだけ苦笑気味に、そして淋しげに微笑みに近いものを浮かべた。
「ごめんなさい」
 自分でも聞こえない程小さな声で、永子は呟いた。それから一拍おいて永子は目を閉じ、功一の顔に自分の顔を近づけ、その瞼にそっとキスした。